データ分析

【西内啓の眼差し】――今後10年のビジネスに「統計学」が必要な理由

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数字を扱えることがビジネスマンの新たな教養であるならば、統計学がビジネス分野に寄与する大きさは計り知れない。なぜならば、意思決定のプロセスに必要な「根拠」をこれまでにない明白さで提示することができるからだ。そんな統計学の可能性と必然性について、株式会社データビークル代表取締役、『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)の著者である西内啓氏に「ビジネス」「データ活用」という視点から、2回にわたって解説していただく。

統計家の仕事は「セクシー」から「ふつう」へ

Googleのチーフエコノミストであるハル・ヴァリアン博士が「今後10年で最もセクシーな仕事は統計家です」と述べたのは2009年のことである(*1)。つまり、2019年にはこの「今後10年」の期間は終わってしまう。

では、その次の10年で統計家の仕事はどうなるだろうか? 私の考えでは「最もセクシー」ではなくなるのではないかと思う。それは統計学がその価値を失うからなどではもちろんない。統計学は相変わらず強力で、きちんとデータを分析してアクションを打つだけで、数億円ほどの売り上げ増やコスト減といった成果はすぐに出る。しかしそれほど強力な武器を大企業が使わずにいつづけるとは考えにくい。あと10年もすればまともな大企業のほとんどは、当たり前のように経営プロセスの中にデータ分析を取り入れることだろう。

つまり、統計家の仕事は「セクシー」ではなく、今よりだいぶ「ふつう」になるというのが私の考えである。

このように言うとしばしば「うちの会社は古い体質なので10年じゃムリですよ」という反論をいただくこともある。もちろんそういう会社もあるだろう。だが逆に聞きたい。なぜそのような会社が10年後も「まともな大企業」というポジションを守り続けられると考えられるのだろうか。

先ほど数億円程度の売り上げ増やコスト減といった成果がすぐ出る、と述べたが、これに関してはデータの裏付けもある。分析したデータをきちんと意思決定に取り入れる会社の生産性・アウトプットは、ITや設備投資の条件をそろえた上で5~6%ほど高いことが指摘されている(*2)。そしてデータ分析に関する投資は13倍という驚異的なROIを示す(*3)。

5%というと小さな数字のように見えるかもしれないが、仮にみなさんの会社が毎年5%ずつ、競合相手に成長率の差をつけ続けられたとすると、15年ほどで「倍以上」という大きな違いが生まれる。データ分析をおろそかにしている間に、競合相手はシェアや利ざやを削りに来ているのだ。

「経験」「勘」「ロジカルシンキング」のはらむ不確実性

そしてわずか10年ほどでデータに基づく意思決定が「ふつう」になるという変化を、既に医学の世界は20世紀のうちに体験している。エビデンスすなわち科学的根拠に基づく医療、という考え方は1990年代に急速に広がり、21世紀に入る頃には世界中で「当たり前に守るべき規範」として考えられるようになった。だが「エビデンスに基づく医療(Evidence-Based Medicine)」という言葉が公的な論文に初めて登場したのは1991年のことだ(*4)。

ここで言うエビデンスとはすなわち、調査データを適切な多変量解析手法で分析した結果であり、ランダムにグループ分けした研究参加者に対する実証実験、すなわちビジネスの言葉に置き換えるとA/Bテストの結果であり、そして過去に行われた実証研究の成果を網羅的に集めて「分析結果に対する分析」を行うメタアナリシスの結果である。

医学の世界の専門家に「データで人の命が救われる」などと主張している人はもはやいない。むしろその逆だ。「データを適切に使わなければ人の命が失われてしまう」のである。

たとえば1989年の時点で既に、適切なランダム化を伴う実証実験を行った結果、抗不整脈薬を投与された患者の方が「全く何の効果もないダミーの薬剤」を投与された患者と比べ、むしろ不整脈での死亡率が増えるといった「直感やロジックに反する真実」が示されるようになった(*5)。人命を左右するような間違いの許されない意思決定において、経験や勘やロジカルシンキングだけではどれだけ心もとないか、世界中の医学関係者たちは既に学んでいるのだ。

そしてこの流れは医学だけでなくありとあらゆる分野に飛び火した。2002年に成立した、アメリカの教育に関する法律の中にも100回以上「エビデンス」という言葉が登場する。アフリカの貧困問題など、開発経済の領域でもエビデンスは重視される。そしてもちろんビジネスにおいても、近年の経営学者たちは「エビデンス・ベースド・マネジメント」という考え方のもと、高度な統計解析を駆使して自らの理論を実証するし、メタアナリシスの論文も盛んに発表するようになった。

ここで経営学者が実証したメタアナリシスの結果を1つ共有しよう。インディアナ大学のジェフリー・コーヴィンらは2003年、それぞれ大量の企業買収事例を含む、大量の研究成果に対する「分析結果の分析」を報告した。その結果、他社を買収した企業は平均するとその後のビジネスパフォーマンスと企業価値を低下させている、という「直感やロジックに反する真実」が示されたのである(*6)。

「エビデンス」に基づく意思決定こそが「ふつう」に

さて、ここで改めて問おう。「むしろ死亡者を増やすと示された治療を自分に進めてくる医師」とみなさんは付き合いたいだろうか? あるいはこうした医師と付き合う人間は「今後も安心」だといえるだろうか?

同じことをビジネスで考えてみよう。たとえば明確な戦略やビジョンもなく「平均的には損」という企業買収を進めてくるような経営陣やコンサルタントと付き合うべきだろうか? あるいはこうした人々と付き合う企業は「今後も安心」だと言えるだろうか?

以前、私は最高裁判所の設置する司法研修所において、現役の判事の方々に統計学をレクチャーする機会を頂いた。その際にエビデンスによって「過失」という概念が今後どう変わるかというディスカッションの題材を提示した。過失とは、何か悪いことが起こることを予見できたはずなのに予見しなかったり、回避しなかったりすることを言う。そしてある事象が過失かどうかを判断する際には、予見あるいは回避しようという努力が「世の中でどの程度の水準で標準的に行われているか」というところがポイントになる。つまり、自分と同じ立場にいる人間が当たり前のように行う水準を明らかに下回っていれば、それはそうした努力を怠ったということになりうるのである。

たとえば、専門医が明確な理由もなく、自分が所属する学会の出すガイドラインに反した治療を行った結果、重篤な問題が生じたというのは過失とはならないだろうか? 国際的に「エビデンスに基づいてこうすべき」と推奨されている方針に反した政策によって重篤な損害を被った住民は、行政を訴えることはできないだろうか? ビジネスにおいても、経営のプロフェッショナルたちがエビデンスに反した経営判断を行った結果、顧客や株主が損失を被ったとすれば、それは法的にどう解釈されるのだろうか?

もちろん今この瞬間に株主がこうした問題を提起したとしても、経営陣の過失責任を問えることにはならないだろう。しかし「当たり前の水準」が変わるであろう未来において、どうなるかはわからない。そしてこの「当たり前の水準」の上がり方は、非線形な挙動を示すだろう。既に述べたように、適切なデータ分析に基づく意思決定はビジネスにおいて大きな価値を生む。そのようなことに取り組む企業の存在感は年々増すはずで、そうした成功を目にして慌てて取り組む企業も増えるだろう。あるいは、データ分析に基づく意思決定を重視しなかった結果、消えていく企業も出てくるだろう。

私は、そうした遠くない未来において「ふつうの企業」を支え続ける「ふつうの人」でありたいと考えている。本稿をここまで読んでくださった皆さんがデータをビジネスに生かそうとされる際、ぜひお手伝いさせていただければ幸いである。

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